まぬ子の映画放浪記

映画の考察や撮り方を考えてみる。と期待を持たせつつ、ほとんど感想かもしれません。オノマトペかもしれません。映画を観ながらひとり酒、ときどき顔パックの日々。

映画『ブルーに生まれついて』感想 【歯を失ってもなお、ジャズに生きた男】

 今回はジャズミュージシャン、チェット・ベイカーの転落と再生を描いた『ブルーに生まれついて』を取り上げます。


 

bornToBeBlue

(C)New Real Films / Lumanity Productions / Black Hangar Studios / Barnstormer Productions / Creation Film and Television / Productivity Media / 2015

『ブルーに生まれついて』(2015)

天才ジャズミュージシャン、チェット・ベイカーの転落と苦悩。アゴを砕かれ、前歯を失ってもなおジャズに生き、再生する陰には、ある一人の女性がいた…


満足度 80%


 天才チェット・ベイカー

脆くて、弱くて、かっこ悪い。こんなにもかっこ悪いのに、痺れるような音楽を奏でる。そんなチェット・ベイカーイーサン・ホークが熱演しています。

 

 

"Hollywood is a place where they’ll pay you a thousand dollars for a kiss and fifty cents for your soul.”
(ハリウッドではキスは1000$ 魂は50¢)
       Marilyn Monroe

  

能力、技術、知識、美貌に値段はつけれども、他人から見た魂の値段はおどろくほどに安い。

客観的に付けられた値段がたった50¢という価格だったとしても、その数字を守りぬくことですら、きっと想像以上に難しい。

 

天才ジャズミュージシャンでありながら、極度のドラッグ依存症のチェット・ベイカー

ドラッグに溺れてどん底へ落ち、暴力沙汰で前歯を失ってもなお、ジャズを諦めなかった彼の魂に、一体いくらの値段がつけられるだろう。 

 

 

まぬ子はドラッグにまつわる映画がきらい。ドラッグでハイになってるテンションには観ていてついていけないし、甘ったれんじゃねえ!!星一徹のように一発ぶん殴ってやりたくなるからだ。

 

 

しかしながら、この作品、その甘ったれた心の弱さや脆さがなければ成立しない。

なぜなら、過去の栄光もまた一種のドラッグのように描かれているように思えてならないからです。

 

心の豊かさと栄光、どちらが人生において価値があるのだろう。

私は「心の豊かさだ!」と即答できるほど魂が美しくない。栄光のために、プライドも魂も削り、結果ドブへ捨てることだってある。

理屈じゃ割り切れないほど、人間は欲深いし、欲深い人ほど脆くて弱い。

でも、自分の魂を削ることでしか、なにかを手に入れられない人間だっている。

だから、彼の弱さを見ているとたまらない気持ちになるのだろうな。

 

ジェーンのモデル

 あらすじには「ある女性がいた」と記したものの、その女性ことジェーンは架空の人物。あんな天使みたいな嫁など、かったのだ…

 

ただ、モデルとなったであろう女性は、彼の一番つらい時期を支えた第二夫人のハリマだそう。

 

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Halima and Chet Baker, Redondo Beach, 1955 by William Claxton 

 

第二夫人?

 

後妻じゃないの…?

 

本作『ブルーに生まれついて』は、チェット・ベイカーが自身の自伝映画を撮影しているシーンから始まる。そこで元妻の役を演じる女優が、このジェーンなのです。

生き別れたとか捨てられたとか、そういうわけじゃなかったんかい…

 

そもそも、ベイカーの女遍歴はいかに?

こちらのサイト、一見すると目次が多く見えますが、一言年表のような形式になっているので、サクッと彼の略歴を追いかけることができます。記事タイトルに既にクズって書いてるけど…


 

 

 

 

目次を見るだけでわかるクズっぷり。

妻と愛人が多すぎて、もはやどの時代の妻が誰なのか把握しきれないという始末。カタカナ迷子になってしまいます。何人のシングルマザーを輩出してんだ。

ダメンズ・ウォーカーはどの時代・どの国にもいるもんですねえ…

 

各地を転々としながらドラッグに振り回され、女を振り回し、人間的にはかなりのクズ野郎だったかもしれないけれど、それでもジャズだけはどうしても捨てたり切り離すことはできなかったのですね。

 

男らしさとは正反対で、むしろ孤独を帯びた脆さみじめなかっこ悪さがかえって人を引き付けるのだから面白いものです…

 

チェット・ベイカー“My Funny Valentine” 

この映画を観るまでチェット・ベイカーの存在そのものを知らなかったまぬ子には、イーサン・ホークもすっかりオッサンになったなぁ」「歌も歌えるのかぁ」なんて陳腐な感想を頭にめぐらせながら、彼が歌う甘い“My Funny Valentine” を聞いたのですが。

 

 

そもそも、チェット・ベイカーの歌声ってどんな感じなの?

 

ということで、ご本人の“My Funny Valentine” がこちら。



 

 

んっっっじゃこりゃぁ

 

色気!!!

 

「歌っている」というよりも、コレはもう、ほとんどため息です。

「退廃的」という言葉が、人間にも使えるなんて知らなかったな…

 

だれもが自分の人生をよりよくするために駆けずり回っているはずで、「退廃的」とは真逆のベクトルを生きているもの。

だからこそ、文字どおり、身をけずり生み出す彼の音楽には「一線を越えた魅力」みたいなものを感じるのかしら。

わたしを含め、一般人には到底足を踏み入れられない聖域(闇)に彼はいたのかもしれないですね。

 

 ■ジャズミュージシャン・菊地成孔の批評

 

ジャズミュージシャン・菊地成孔さんがラジオでこのように批評されていたそうで(ジェーン=ハリマ説もこちらから)、ジャズ界隈の人が聞くとビックリ仰天な美談に聞こえてしまうほど、チェット・ベイカーは悪魔のような男とのこと(笑)

餅は餅屋に聞くのが一番で、映画を見た後でこういう記事を読むと、一般人との視点の違いが新鮮だなぁ。

 

特に、イーサン・ホーク版とチェット・ベイカーご本人との歌の聴き比べが面白いです。

無理やりにでも本人の歌声に似せなかったのは、イーサン・ホークもしくは演出の賢い選択ともいえるでしょう。到底ご本人には敵いそうにないですもんね。

 

Born To Be Blue

 で、ブルーって結局なに?というお話について。

 

 ジャズやブルースは通常のドレミファソラシドと違う音階を使うそうで、それが「ブルー・ノート・スケール」と呼ばれているそう。

さっきからジャズジャズ言ってるけど、ここでの「ブルー」はブルースのことなんですね!

 

村上春樹が翻訳集『村上ソングス』で、『born to be blue』の歌詞をこのように訳しています。

 

Some folks were meant to live in clover
But they are such a chosen few
And clover being green
Is something I have never seen
'Cause I was born to be blue

 

クローバーに囲まれて暮らすように
生まれついた人たちもいる。
でもそれは、限られたわずかな人たち。
クローバーの緑なんて、目にしたことはない。
だって私はブルーに生まれついたのだから。

 

この後にも若い頃に失くした恋人へ思いをはせる旨の歌詞が続くのですが、ここでは割愛します。

 

live in cloverには裕福に暮らすという注釈がついています。

ということは、自分は裕福とか絵に描いた幸せな暮らしとは離れたところにいるけれど、自分には自分の世界(ブルーの世界)があって、ここが自分の生きる場所なのだ、ということですよね。

裕福さをねたむような卑屈なニュアンスではなく、自分のいる場所で自分の道を生きていくしかないというほろ苦さが、哀愁をより引き立てます。

 

 

どれっっっだけダメで脆くても、こんな風にしか生きられない。ジャズを愛さずにはいられない。

そんなチェット・ベイカーの生き様を肯定する素敵なタイトルだなぁと改めて感銘を受けたのでした。

 

村上ソングズ

村上ソングズ